My Little Knight






『薔薇に棘がある理由?』

幼い義理の弟より投げかけられた突然の問いを、は目を瞬き復唱した。植物図鑑を手に何度も頷くシャディクの瞳は今日も美しい紺碧が輝いており、その愛らしさには思わず頬が綻んでしまう。身長は未だ若干低い弟を近くへ呼び寄せ、は実物の花をそっと示した。
二人がよく共に過ごす温室は特別の誂えとなっており、地球の植物を何種も取り揃えている。薔薇はその内のひとつで、も昔から気に入っている花だ。可愛がっている弟が同じ花に興味を持ってくれたことを、喜ばしく感じない筈が無い。

『そうね。品種にもよるけれど、理由は大きくふたつあるわ。ひとつは身を守る為、そして、棘を使って何かに寄り掛かる為よ』
『寄り掛かる?』
『そう。薔薇の花は美しいけれど、その身一つで自立出来ない個体が多いから』

その回答に目を丸くした弟は、しかし次の言葉で姉を大いに困惑させた。

『良かった』
『え?』

嬉しさと安堵に柔らかく微笑む弟が、熱心に薔薇の花を観察している。その横顔は、不思議なほど強い引力を伴いの目を惹きつけた。

『姉さんは、薔薇の花みたいなひと。綺麗だし、良い香りも似てる。僕はまだまだ勉強中で知らない花も多いけど、とても好きな花です』

突然の花への例えは、恐らく誉め言葉で合っている筈だ。加えてそれを好きと言われたことも、敬語が入り混じりながらも当初より大分打ち解けてきた様な口調も、シャディクの発する何もかもがの心を優しく掴んで離さない。

『素敵な花だから、そのままじゃ誰かに攫われてしまうかも。身を守る為の棘は確かに必要だし、それに・・・』

言葉が途切れ、不意にその紺碧と視線が絡んだ。美しい瞳は疑い様も無く真っ直ぐな好意と敬意を乗せて輝いている。
ふわりと微笑むその表情の眩しさに、は暫し呼吸を忘れた。

『僕はきっと、姉さんが安心して寄り掛かれる様にこの家へ連れて来て貰えたんだと思うから。光栄です』

愛すべき弟。血の繋がりが無いことなど感じさせぬ程に慕い、精一杯に力になろうとしてくれる、大層可愛らしいの騎士。
薔薇への例え話はやはり弟として姉に尽くすことへと繋がっている。は内心の小さな動揺を抑え穏やかに微笑んで見せた。

『薔薇は私も大好きな花だから、そう言って貰えるのは嬉しいけど・・・棘だらけで寄り掛かられたら、きっと痛いのではないかしら』
『僕は大丈夫。姉さんの棘なら、どんなに刺さっても痛くないから』

シャディクは一切臆すことなく、嬉しそうに笑う。自立も出来ない花を支える為、棘に巻かれる損な役回りを光栄と呼ぶ。

『いつでも頼りにして下さい。姉さんを支えるのは、僕の役目だから』

真っ直ぐ過ぎる思いを受けて、胸の奥が熱い。
は辛うじて姉の顔を保ち微笑んだが、背後に隠した手は鼓動の高鳴りを証明するかの様に硬く握られていた。




* * *




ふと我に返った瞬間、自室の時計が思いのほか進んでいなかった現実には小さく肩を落とした。弟の不在はもとより淋しいものであったが、最近は一層独りの時を虚ろに感じる様になってしまったものだ。

今尚色褪せない愛おしい回想に耽っている間に、時が過ぎ去ってしまえば良い。どんなに価値のある機会も全て見送って構わない。睡眠も食事もいらない。次にシャディクが帰って来るその時まで、いっそ凍り付いてしまいたい。実際には口に出せる筈も無い偏った思いを自嘲し、はレターセットを取り出した。

《愛する貴方へ》

最早骨董品扱いされるツールが、一番の救世主となる。紙とペンを取るこの時間、は暫し己の中の彼と向き合うことが出来る。優しげに微笑むシャディクの姿をはっきりと想い描きながら文字を綴る時間が、淋しさを多少和らげてくれる様な気がした。

《もう何通目になるのかもわからないわね。実際に出す勇気も無い手紙を綴る私を、貴方は笑ってくれるかしら》

実際に学園へと出す手紙には、誰の目に触れても問題の無い家族愛を。出せない手紙には、秘めた本心を。そうして使い分けた結果、随分と後者が溜まってしまった鍵付きの引き出しには苦笑しか浮かんで来ない。直接手渡す勇気も無い、曝け出せる筈も無い、酷く濁った一面を便箋に預けることでは今日も心の均衡を保つのだ。

《貴方の瞳に映る私は、少し前までどんな風に見えていた?ひとりでは生きられない弱い姉?それとも、貴方を頑なに弟としか見ようとしない困った姉さん?身体が弱いことに関しては紛れも無く事実ね。でも、私はシャディクが考えているよりずっと強かだし、随分と長いこと仮面を被って生きていたのよ》

姉さん。敬語が抜けない内から安定していたその呼称が、今と違い家族愛一色だった頃より、は長い間隠し事をしていた。

《貴方が私を特別な温度で慕ってくれるより早く、私の方が貴方を欲していただなんて。きっと貴方は気付いていなかったのでしょうね。私の可愛い騎士様。貴方が考えているよりずっと前から、私は貴方に強く焦がれていたのよ》

小さな少年が背を追い抜くより早く。初めての婚約話が破談になるより早く。もう随分と昔から、は義理の弟に夢中だった。家族に向けるには熱過ぎる気持ちの正体にも、同時にその思いが許されないものだという現実にも、聡い少女はいちはやく気付いてしまっていた。

《血の繋がりは無くても弟なのだし、ゼネリ家の子である以上は私たちそれぞれに役割があるもの。万人に受け入れて貰える筈の無い歪んだ想いだって、勿論悩んだわ。でも、いけないと思っても、頭の片隅で他の私が泣き叫ぶの。シャディク以外はいらない、この想いを捨て去るくらいなら消えてしまいたいって。だから貴方から向けられる好意に熱が灯り始めた頃、どんなに嬉しくて、どんなに困り果てたことか》

ある時を境に、純粋に姉を慕う弟の瞳の色が変わった。素早く気付けたのは、己も熱を秘めていた為に他ならない。成就の許されない想いが互いに繋がってしまった嘆きも、叫び出したいほどの歓喜も。全てに蓋をしては姉の仮面を被り続けた。

《お父様はこの関係をお許しにはならないでしょう。どんなに想い合っても、姉弟同士はいつか必ず引き離される時が来る。だからいつも穏やかな笑顔で貴方の手を離せる様に、弟相手に特別な関係など望む筈も無い病弱な姉を演じていたわ。本当に良き姉なら、全て蓋をしたまま貴方を弟として慈しむ、それだけで満足出来た筈なのに。物分かりの良い振りをしながら、どうしたらシャディクを引き止めておけるのか、私はそればかりを必死に考えていたの》

認めて貰える筈が無い。幸福な未来には辿り着けない。それを理解していながら、諦めることがどうしても出来ない。繋がれた手を解くことは死にも等しい苦痛だった。

家の為に正しく姉であろう。
全て投げ打ってでもシャディクが欲しい。

相反するふたつの思いによって心身を虐まれ続ける最中、はひとつの逃げ道に目を止めたのだった。

《私が不調を起こして縋りつく度、貴方の瞳の色が変わっていくのを感じた。貴方の必要性を訴える度、綺麗な紺碧が暗く色を変えて、同時に狂おしく熱を上げていくのがわかった。私は浅ましいことに―――その光景に、堪らない喜びを覚える様になってしまったの》

立っていられない程の眩暈によろめいた、その時。当然の様に優しく抱き留められた、その時。傍にいて。離さないで。抱きしめて。口には出せない願いを瞳に込めて縋り付くことで、シャディクを繋ぎ止められることに気付いてしまった。美しい紺碧の双眸、その奥に燻る熱は真っ直ぐな好意とは異なるものだと意識的に理解していながら、堪らなく魅惑的で目を逸らせない。繋いだ手を離さずにいられるなら、何だって構わなかった。

《いけないと自覚しながら私が弱さを武器に貴方を引き留める傍ら、貴方は日に日に逞しく、魅力的な男性に変わっていく。私だけの小さかった騎士様が、会社を始めとする外の世界で活躍の場を広げていくことが―――どれほど、辛かったか。愛する弟の成功を心から喜べないだなんて、姉さん失格だわ。私は私を呪って、同時に貴方を取り巻く外の世界を呪ったの。昔はあんなに可愛がっていた筈の、あの子さえも》

ミオリネ・レンブラン。彼女がシャディクの傍にいる光景を脳裏に思い描くと、胸の奥がずくりと痛んだ。

ほんの幼い頃より、は彼女のことを知っている。何でも自分で出来ると虚勢を張るつんとした唇が、二人の共通の趣味とも呼べる地球の植物のこととなると途端に緩む。素直でないところもまた愛らしい、ベネリットグループの行く末に関わる令嬢。密かに妹の様にすら思っていた存在は、最愛の弟と関わることで嫉妬の対象へと姿を変えた。
行きたいところへ駆け出して行ける、ごく普通の身体強度がには欠けている。正面から親や会社に逆らう行動力も、勇気も無い。日々世界を広げていくシャディクについて行くことなど、出来る筈も無い。己の劣等感が泥となり纏わりつき、表へ出る頻度が減った。醜い嫉妬を押し隠すべく、に無い全てを持つミオリネとの関係も自然と絶たれた。

何処へも行けない。何処へも行って欲しくない。
傍にいるべきではない。誰より傍にいたい。
弟へ向ける気持ちとしてどうかしている。それでも諦めきれない。
欲しい。欲しい。欲しい。

知らず知らずの内にきつくペンを握り締めていた手を緩め、は苦笑を浮かべた。インクの染みも乱れる筆圧も、何もかもありのままの自分。届かぬ手紙は全てを映す鏡だ。ひとつ呼吸を置くなり、は再び文字を綴り始める。

《嫉妬と焦燥で毎日狂いそうになりながら、変わらない貴方の態度で辛うじて良い姉の姿を保っていたのだけれど。素敵なドレスひとつ用意出来なかった月夜のワルツから、何かが崩れ始めたわ。思えば、限界はとうに越えていたのかもしれないわね。喉から手が出る程に欲しいものを目の前にして、それでも冷静に演技を続けられる私ではないもの》

夢の様に甘やかな月夜だった。映画の向こう側に夢見た舞踏会を、シャディクは現実にしてくれた。特別な腕に抱かれて身を揺らすワルツは、憧れ以上の煌めきに満ちての心を蕩けさせたが、同時に薄い仮面を溶かす熱を秘めていた。





目と目を合わせるには、近過ぎる。吐息すら直に感じる程の至近距離。


『俺の目を見て』


美しい紺碧に射抜かれ、抱かれた背を命綱に足元が崩れて行く様な心地。


『俺の気持ち、わかるよね』


真剣そのものな声を注ぐ、その唇すらほんの身動ぎで何か間違いが起きてしまいそうな距離感。動揺と幸福が許容量を超えて押し寄せ、これまで目を背けながら欲し続けた奇跡の甘美さを思い知らされた。






そこから先、ほんの僅かな抵抗を止めただけでは呆気なく転がり落ちた。否、堕ちる口実に出来るきっかけを待っていたとも言えるだろう。
新たな婚約者と破談、肌身離さず身に付けるほどの贈り物、使用人の真似事に、看病の果てに一晩共に寄り添った温かなベッド。何にも阻まれず寄り添えた三日間の幸福を経て尚、遠く離れた地での療養生活など受け入れられる筈が無かった。

《お互いに誰と婚姻を結んでも変わらず傍にいてくれると、貴方は言ってくれた。ずっと頼りにすれば良いと、怖くないと、ひとつずつ私の不安を取り去ってくれた。簡単には頷けなかったけれど、嬉しかったわ》

表立ち家の意向には逆らわず、願いを叶える唯一の方法。現実感の無い提案はの胸に深く突き刺さり、日々その価値を主張し、遂には信じるに値する未来そのものとなった。

家の期待は裏切らない。為すべき役割も放棄しない。しかし、心だけは決して譲らない。険しい道を、二人で前へ進むと決めた。真に彼の幸せを思うなら。そうした迷いは、捨て去ると決めた。

は切なく瞳を伏せる。今の自分は去し日の眩しい笑顔で告げられた、薔薇に似た美しい姉とは呼べないだろう。残るものは醜い棘ばかりだ。それでも、どんなに刺さっても痛くないという言葉に縋ってしまう。

《本当に駄目な姉さんでごめんなさい、シャディク。私はたとえ血を流させてでも、棘だらけの腕で貴方にしがみ付いて離したくないの》

執着を捨てられなかった己の愚かさはいくらでも認めるが、今を守る為ならば何だってする。何にだってなる。全て、喜んで差し出せる。シャディクが望むなら、その寵愛を得る為なら、どんな形でも構わない。

例えそれが、支配されるばかりの人形になることだとしても。

《貴方の望む姿で在り続けると誓うから。何もかも、貴方の思いのままの私に喜んでなるから。どうかずっと傍にいて。私の騎士様》

はその一文で手紙を締める。薄紫の便箋は、乱れた文字で埋め尽くされていた。




* * *




手紙一通分の重さを増した引き出しの鍵を閉めると同時に、端末が音を立てる。ディスプレイに表示された名前に飛び付く様に応じたの耳許へ、柔らかな声が届けられた。

「やぁ姉さん、調子はどうかな」

途端に身体が軽くなる。全ての細胞が息を吹き返す。傍にいなければ息も出来なくなれば良い。冗談だと笑われた言葉は、言霊としてに根付きつつある様だ。決して健全とは言えない依存に、はこれ以上無いほど幸せそうに微笑んだ。

「今、元気になったところよ」

囁く様に返した本音に対し、空白が数秒。端末の向こうで、シャディクが優しく笑った様な気配がした。

「都合良く受け止めるよ」
「どうぞ、そうして頂戴。声が聞けて、嬉しいわ」
「最近気付いたんだけど、電話も悪くないね。顔は見えないけど、すぐ耳許から姉さんの声が聞こえる」
「ふふ。確かに、悪くないかもしれないわね」

少しでも近くから声が聞こえるならば嬉しい。どんなに些細なことも、近くへ寄れるならばそれは幸福だ。実物に会えたならと、きっと通話を終えた瞬間に途方も無い淋しさが迫るのだろうけれど。最後に過ぎった負の面に気付かない振りをして、は今この瞬間の多幸感に酔いしれる。

「ところで、扉を開けて貰えると嬉しいんだけど。どうかな」
「・・・え?」

心臓がひとつ、音を立てた。

「ごめんよ、両手が塞がってノックも出来なくて」

信じ難い思いで振り返る。普段通りの静かな扉の向こう側に、唯一逢いたいひとがいる。一歩、二歩、あとは力の限り早足で扉を開け放った。

刹那、視界を埋め尽くす淡い色彩には呆然と足を止める。白、淡青、薄緑。そして、はっきりとした薔薇の香り。思いもよらぬ大きな花束の向こう側に、漸く探しびとの笑顔が覗いた。

「姫君に貢物だよ。驚いた?」
「え・・・ええ、とても・・・」

驚かない筈が無い。何しろ今日来るなどとは一言も聞いていなかったのだから。視界いっぱいのサプライズに気圧されながらも、は待ち望んだ相手の姿をまじまじと見つめた。
右手に巨大な花束を。左手に端末を。スーツ姿にまとめ髪は仕事の装いで酷く大人びて見えるものだが、端末を仕舞い両手で花束を抱え直すなり肩を竦めて笑う表情は弟そのものだ。
グラスレー社の将来を担う若き幹部候補、頼れる弟、そして最愛のひと。全て真実だなんて、昔の自分に聞かせたならば素直に信じるだろうか。薔薇の香りに包まれ、は暫しぼんやりとしてしまう。

「それは良かった。悪いんだけど手伝って貰えるかな。少し重いんだ」
「あっ、勿論よ。受け取るわ」

反射的に差し出した両腕は、しかし花束を受け取るより先に巧みに片手で絡め取られてしまう。訳もわからず細い声が喉を通るより早く身体が反転し、気付けば閉ざされた扉を背に花束とシャディクによって退路を絶たれていた。

ほとんど密着する様に真正面に立ち軽々と片手で花束を抱える弟は、音を立てて内鍵をかけ満足そうに微笑んでいる。してやられた、とは思わない。今にも顔を近付けようとするシャディクの両脇から腕を差し入れ、すっかり逞しくなった胴体へと抱き着き、は囁く。

「・・・掴まえた」

咽せ返る様な薔薇の香り。ほんの数秒の末に髪を撫でる弟の手は変わらず優しいものだ。シャディクが可笑しそうに肩を揺らし小さく笑う、その際の微々たる振動すら愛おしい。

「姉さんは面白いね。今のは状況的に、俺の台詞だと思ったけど」
「・・・そうかしら」

掴まえたのはどちらの方か。曖昧に微笑むことではその問いを誤魔化した。

「それより、本当は手伝いなんていらなかったのね?」
「これでもパイロット科で鍛えているからね。この程度じゃ重さの内に入らないし、俺が実際に重いものを姉さんに持たせる筈が無いじゃないか」
「・・・確かに、それもそうね」

一体何十本束ねればこの様な大きさになるのか。それなりに重量を伴う豪華を極めた花束はどう見ても特別な仕様であろうが、何事も無い今日さらりと持参してしまうシャディクには困ったものだ。しかし、大切な存在から花を贈られることは、やはり嬉しい。はシャディクの背に腕を回したまま、振り返る様にして煌びやかな花の山を覗き込んだ。

「とても綺麗。ホワイトローズと、デルフィニウムね。あとは・・・」
「姉さん」

優しい声に意識と視線を引き戻され、息が止まる。
鼻先が触れ合う距離で、紺碧の瞳が焦れた様な色をしてを見下ろしていた。

「プレゼントを喜んで貰えるのは嬉しいけど」
「・・・」
「折角、ふたりきりなんだから」

一言、一言。言葉を重ねる毎にその声は甘やかさを増し、耳の奥を蕩けさせる。十分に広い部屋の片隅で、二人を取り巻く温度が急速に上がっていく。
ふたりきり。この状況が如何に貴重か、そして何を意味するのか。の頬を熱く撫でた指先が、意図的に唇の端を掠める。

パーティーの夜を境に、義理の姉弟の関係は明確な一線を越えた。を至近距離で見つめるシャディクは最早、弟の顔を装ってはいない。

「まずは、特別な挨拶をくれないかな」

優しい笑顔に灯る狂おしい熱は、長年の願いが叶った証だ。は込み上げる想いに息を飲み、そして柔く目を細めた。
公には許されない道故に随分と悩んでいたが、今この瞬間の幸福を思えば何を躊躇っていたのかと不思議な温かさに満たされる。誰に理解されずとも構わない。いつか配偶者を定められる日が来ても、の心は目の前にいる弟ただ一人のものだ。
華奢な腕がシャディクの首に絡みつく。見つめ合うには近過ぎる距離で、互いを慈しむ様に微笑み合った。

「お帰りなさい・・・逢いたかったわ、シャディク」
「俺もだよ、姉さん。ただいま」

の踵が、ヒールから静かに浮き上がる。
薔薇の香りに満ちた部屋で、幸福な秘め事が始まった。


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