ことほぎ




母の機嫌は朝から激しく悪かった。一歩外に出れば肌を刺すような寒さで足元が絡れ、転びはしなかったもののすれ違う者の嘲笑は容赦が無い。正面に抱き抱えた赤子と目が合うと、何が嬉しいのか上機嫌に笑った。

正月とて、普段と何ら変わらない。小さな妹が凍えぬよう、妓夫太郎は腕の中の宝物を一層大切に抱き寄せ先を急ぐ。行き先は、馴染みの平地だ。恐らくは、普段通りここの人間は寄り付かないであろう、草木ばかりが茂るがらりとした空き地。
明確な約束はせずとも日々共に過ごすことの多い唯一の友が、願いを口にしたのだ。元旦の朝、此処で会いたいのだと。

「・・・」

知らず知らずの内、足早になる。白い息を短く弾ませ、ほんの僅かでも早く辿り着けるよう。約束の場所で、既に彼女が待っているような気がして。一歩一歩と近付く度、本人も無自覚にその青い瞳が小さな期待に光を見出していることを、今は言葉も話せぬ赤子の梅しか知らない。

妓夫太郎の足が止まった。見違える筈の無い待ち人を、その目に捉える。ただ、華奢な背に何と声をかけたものか、何とも表現し難い照れ臭さに二の足を踏んでしまう。侮蔑の視線も、母の機嫌の悪ささえ忘れてしまう程に急いで来たというのに、何故。そうして逡巡する中、祈りが通じたかの様に彼女が振り向く。

「・・・妓夫太郎くん!梅ちゃん!」

厳しい寒さの中で、椿の花が咲き綻ぶようにが笑った。心から嬉しそうに、待ち焦がれていたかの様に。其れ程の価値が己にあるとは到底思えないながらも、の態度に嘘が無いこともまた理解出来てしまう。妓夫太郎はむず痒い胸の内に蓋をして、ゆっくりと待ち人の傍へと寄っていった。

「新年、おめでとう」
「・・・おぉ」

は隣の区画を取り仕切る女将の娘である。着崩すことの無い着物にしっかりと羽織を重ね、丁寧に頭を下げる所作は、礼儀など碌に知らぬ妓夫太郎の目にも美しく映った。生憎、それに相応しい返答も出立ちも、持ってはいないけれど。返したのは適当な相槌だったが、はそれに気を悪くすることも無く普段通りに微笑んでいる。

「あ、う?」
「ふふっ・・・梅ちゃんは今年も特別可愛いねぇ。少しだけだっこしても良い?」
「言われなくてもこいつはそのつもりだろうなぁ。梅、行くぞぉ」

見知った安心出来る雰囲気を感じ取ったのだろう。自ら手を伸ばす梅を慣れた手付きで受け取り、が特別心地良さそうに目を細め頬を擦り寄せる。すっかり懐いた証としてきゃっきゃと妹が笑う光景に、妓夫太郎は思わず苦笑を溢してしまう。あまりに穏やかな空気が、肺を優しく満たしていくようだった。

「年が明けたからね、今日は皆で一緒に歳をとる日なんだよ。梅ちゃん、おめでとう」
「あうあ」
「ふふ。まだわからないよねぇ、可愛いなぁ」

会話は成立しないながらも、この愛らしさを前に際限無く眦を下げてしまう気持ちはよくわかる。そうして謂わば油断しきっていた最中、突如として黒い瞳がこちらに向けられたものだから、妓夫太郎はぎくりと肩を強張らせる羽目になった。

「妓夫太郎くんも、おめでとう」

からの祝福の言葉に淀みは無かった。新年を迎えることは誰にとっても歳を重ねることと同義である。梅には通じなかった祝いの言葉を彼女から真っ直ぐに差し出され、思うこと。そっと返された妹を大切に抱き抱えながら、妓夫太郎が覚えたもの。

「・・・梅やお前はともかく、俺は別にめでたくはねぇんだよなぁ」

それは、己には相応しくないという否定にも似た気持ちだった。

「どうして?」
「どうしてってお前・・・」

妹の健やかな成長は、当然嬉しいし喜ばしいことに違いない。しかし、これまで悪意に晒され続けた身としては、歳をとることでの祝いの言葉など過分なものに思えて仕方がない。歳を重ねたところで未来に希望など、明るい展望など、描ける筈も無いと。どうしたら上手く彼女に伝えられるものだろうか。出来れば、あまり傷付けない形を取りたいものだけれど。そうして妓夫太郎が戸惑っている間に、は不思議そうに小首を傾げながら半歩近付いて来た。

「皆揃って歳をとれて、私は嬉しいし、お祝いしたいよ。だって妓夫太郎くんが生まれてきてくれたから、今こうしていられるんだし」
「・・・お前なぁ」

悉く、予想の遥か上をいく表現ばかりだった。の言葉は悪意とは真逆の眩しいものがこれでもかと言わんばかりに詰め込まれており、おまけに嘘偽りの気配が無い。
決して、嫌ではなかった。ただ、あまりに縁遠かったものを差し出され、どうしたら良いのかがまるでわからない。

その時だった。

カツン、と背に小さな衝撃を覚える。反射的に、妓夫太郎は梅に覆い被さる形で更に背を丸めた。
背後から響く耳障りな嘲笑。追加の衝撃、そして足元に転がる小石。腕の中の梅が視界いっぱいの兄の顔に不思議そうにしていることが救いだと、妓夫太郎は眉を下げた。
いつものことだ。梅に害が無いなら、それで構わない。投げつけられた石が小振りな物で良かった。痩せ細ったこの身でも、幼い妹ひとりなら十分に覆い隠せる。

妓夫太郎は安堵の大きさ故に失念した。目の前に佇むが、凍り付いたように動かないこと。その指先がぴくりと跳ねるなり、全身を僅かに震わせて肩で息をしていること。彼女が鋭く酸素を取り込む音がやけに耳に響いたその時になり、漸く妓夫太郎は眼前に迫る異変に気付いたのだった。

「・・・っ帰って!!」

こんな声を知らない。普段のはのんびりとした穏やかな話し口調で、このような腹から絞り出すような叫びは、どうしたって結びつきはしなかった。

妓夫太郎の足元に転がった小石をかき集め、何をするかと思えば、彼女は渾身の力をこめて投げ返した。唖然と固まるしかない妓夫太郎の目の前で、想定外の反撃にあった子どもたちが悲鳴を上げている。しかし、妓夫太郎の目には一切が朧げだった。意地の悪い連中が痛い目に遭っている、良い気味だと嘲笑えたかもしれない状況も。この時ばかりは腕の中にある妹の存在さえも、何もかも。

「今すぐ・・・いなくなって!!」

ただただ、の怒りだけが苛烈な炎の如く、鮮明に映った。日頃は柔らかく下がり気味な眉を無理に吊り上げ、慣れない激情に肩で息を繰り返しながら、彼女は全身全霊の力であの子ども達を追い払ってしまった。

荒れる白い吐息に、真っ赤に上気した頬。そして、怒りのあまり潤んだ黒い瞳を目の当たりにした途端、妓夫太郎の心臓は説明の出来ない早鐘を打った。呆気に取られてばかりではいられない。

此処まで近所の人間がやって来ることは稀だ。考えが甘かった。とこの場所で落ち合う度、あのようにあからさまな横槍はこれまで入ったことが無かった。だが、のいない場面では石を投げられるなど日常の風景だった。いつものことだ。がここまで怒りを露わにする必要などない。妓夫太郎や梅と違い、真っ当な育ちのには、このような反撃など似つかわしく無い。

ーーー隣に立つには、似つかわしく無い。

ずきりと胸の内が痛むのは、きっと気のせいだ。妓夫太郎は戸惑いながら口を開く。

「お前っ・・・おい、こんなことお前の親に知られたら」
「私の大切な友達が、何もしてないのに石を投げられたんだよ・・・!」

元凶が去ってなお治りが効かないように拳を握りしめるの瞳は、大きく揺れていた。その真剣さに、妓夫太郎は呆気なく気圧される。

「それで怒られるなら、私納得がいかないから、お母さんと戦う」
・・・」
「相手がお母さんでもあの子達でも、誰でも関係無いよ。妓夫太郎くんを傷付けるひとも、それを見て見ぬふりするひとも、私は絶対に許せないし大嫌い!」

が迷いなく言い切った直後、妓夫太郎が耳鳴りを覚えた原因は急激な静寂か、それとも途方も無い動揺か。はたまた、強く心を動かされた為か。

そんな中、か細い泣き声が妓夫太郎の腕の中から上がる。はっと我に返ったのは二人同時のことで、の怒りの残火は一瞬で鎮められた様だった。

「あっ・・・ごめん、ごめんね梅ちゃん、びっくりしちゃったよね」

慌てて妓夫太郎から再度梅を受け取り、懸命に優しく問いかけるはよく知るままの彼女だった。全身で怒りを表現する姿は名残すら無い。償いのように、懇願のように、必死にあやすの思いとは裏腹に、梅は泣き止む気配を見せない。

「怖がらせて本当にごめんね、梅ちゃん・・・泣かないで。もう嫌なことしないよ、大丈夫だよ」
「・・・落ち着けよなぁ」

不思議な心地だった。怒りの鎮火という大業を為し、体温を上げる小さな妹を貰い受け、妓夫太郎はそっと背を撫でる。戸惑いも、動揺も、大きかった分だけ今は落ち着いて考えられる。

「なぁ。ちゃんとわかってるよなぁ、梅・・・」

が、嫌なことをする筈が無いということ。が、自分たちを大切に思ってくれているということ。堂々と口には出せない思いを胸に一層優しく揺らせば、梅はゆっくりと泣き止んだ。

「あぁ、もう。新年早々、梅ちゃんを泣かせちゃうなんて・・・本当に、ごめんなさい」
「気にすんな、赤ん坊は泣くもんだろうが」

が、他でもない自分の為に怒ってくれた。荒事とはまるで無縁な筈の穏やかな性分に鞭を打ち、必死に庇ってくれた。向けられることに慣れてすらいた悪意の全てを、きっぱりと否定してくれた。

救われたような思いがした。

「・・・俺の方こそ、悪かったなぁ」
「妓夫太郎くん?」

同時に、何も出来ないままでは嫌だと。に守られるばかりの自分ではいたくないと。強烈にそう感じ、妓夫太郎は顔を上げる。彼女の黒い瞳は、梅が泣き止んで尚おろおろとした焦りから抜け切れていなかったが、もうすっかり普段通りのに戻っていた。

「お前に守られてるようじゃ、まだまだって意味だ」

不貞腐れたような小さな音量だった。それを受け止めたが、目を丸くした末に眦を下げて笑う。

「ふふ・・・」
「・・・んだよその顔は」
「だって・・・」

目の前でが柔らかく笑っている。ただそれだけで胸の内に温かさが灯る感情の名前を、妓夫太郎はまだ知らない。

「さっきはただ必死だったけど・・・私、ふたりを守れたんだって思ったら、なんだか嬉しくて、つい」
「・・・うるせ、ばぁか」

何に憚ることもなく、友と呼んでくれる。彼女と共に在れる時間を、大切にしたい。芽吹き始めた思いは、戸惑いと安らぎが半々に折混ざる。


「なぁに?」
「・・・まだ、言ってなかった」

正月など普段と何ひとつ変わらないと思っていた。歳を重ねることに、少なくとも己に関しては意味など無いと。将来に明るい兆しなど無いと。

ただ、この得難い存在に祝福の言葉くらいは伝えたい。穏やかな笑顔を前に、妓夫太郎は強くそう感じるのだ。

例え何も出来ずとも。言葉の祝詞だけでも。

「・・・お前も、おめでとう」

ゆっくりと、大きな瞬きをひとつ。

「・・・うん!ありがとう!」

思わず口許が緩まってしまいそうな眩しさを前に、妓夫太郎は慌てて下唇を噛んだ。