約束した練習室へ向かう道すがら、何時の間にか荷物に付着した異物を目で捉え、妓夫太郎は足を止めた。
銀杏の葉だった。黄色の発色が鮮やかで、しっかりした大きさに形も整っており、丈夫に見える。ノートに挟む押し花の候補を探しているのだと、から聞いたのは一週間ほど前の話だ。
「・・・」
まだ、これは有効だろうか。銀杏の葉一枚など、差し出したところで笑い者になるだけではないかと―――考える傍から、彼女に限ってそれは無いと、静かに己自身で蓋をした。
自己肯定感はどうしたって低いままであるが、がそれを上回る全肯定で包み返してくる性分であることを知っている。
率直に言うならば、分不相応な程に、好かれているのだ。
脳内で反芻するだけでも信じ難い思いにじっとしていられず、妓夫太郎は無理に前進しかけた足を止め、手持ちのファイルに件の葉をそっと挟む。
ありがとう、謝花くん。例え既に用済みであろうとも、そう笑って受け取ってくれるであろう声が聞こえる気さえするのだから、酷く重症である。奇跡的に連弾パートナー以上の関係性を得て以来、多幸感が日常的に許容量を超えておかしくなった。日々落ち着かないような、満ち足り過ぎて足許が危ういような心持ちなのだ。
約束の時間まで間もなく。練習室の重厚な扉を押し開けようとした妓夫太郎の手が、止まった。微かな隙間から溢れてくる旋律に、聞き覚えが無いと悟った為だった。
の音は判別出来る。既にひとりピアノに向き合っているのも本人に違い無い。しかし、彼女の指から生まれる曲は初めて耳にするもので。暫し様子を伺う妓夫太郎に気付く素振りもなく、演奏は中途半端にぴたりと止んだ。次いで、譜面に開かれたノートに何かを一心に書き付け、また少しの間続きを弾いては書くを繰り返す。時に迷い、時に思案する姿は真剣そのものだ。妓夫太郎は声をかけるタイミングを完全に逸した。
「・・・」
初めて聞く優しい音色を、愛おしむように一音一音奏でるは綺麗だった。彼女一人でも十分完成しきった空間に、似合わないと理解しつつも隣の席に掛ける権利を得て随分経つ。ただ見守れるだけで良かった筈が、傍にいることが日常になり、信じ難くも彼女は“再び”己を選んでくれた。こうして眺める時間さえ、奇跡の上に成り立った尊い時間に思えた。
そんな中、通路を挟み向かいの扉が開く。練習中であろう吹奏楽が高らかに響き渡り、妓夫太郎はぎくりと肩を強張らせた。いかにの集中力が強靭であろうと限度がある。扉の隙間から流れ込むには十分過ぎるトランペットに、華奢な背がぴたりと固まったかと思えば、機械的な鈍い動きで振り返り、はっきりと目が合った。黒い瞳が丸くなり、焦った色で時計を見上げる。約束の時間からは既に五分が過ぎていた。
「ごっ・・・ごめんね、全然気付かなくて・・・!」
「・・・いや、お前が謝ることは」
「私自分の世界過ぎて声かけ辛かったよね・・・!お待たせしちゃって本当にごめんね・・・!」
は迷うことなく謝罪を口にした。声をかけなかった自分も悪かったという言葉を封じられ、妓夫太郎は眉間に皺を寄せながら改めて入室し扉のロックを降ろす。
普段のようにすぐさま長椅子の隣半分を空けると思われたは、しかし今日に限って慌てたように再度ピアノへと向き合った。おやと妓夫太郎が小首を傾げる間も無く、陽気に演奏が始まったのは世界的に有名な誕生日の曲であり、ますます妓夫太郎は困り顔を深める。
断じて、迷惑などでは無かった。ただ、あまりの直球にむず痒い思いが全身を突き抜ける。
秋深まり晴れ渡る今日、妓夫太郎はまたひとつ歳を重ねた。
「・・・ベタなことすんなよなぁ」
「ふふ。夕方梅ちゃんと合流してから改めてお誕生日パーティーだけど、一足お先にこれくらいは許されるかなぁって。お誕生日おめでとう、謝花くん」
「・・・おぉ」
遅れて空けられた半分に掛ける。隣り合った距離感で、肩を竦めて見せるの笑顔がやはり眩しく、妓夫太郎は素っ気無い態度を装うことに苦労した。
「えっと、色々格好つかないのはわかってるんだけど、多分バレてるから白状するね」
譜面台に開かれたノートは、手書きの五線譜と無数の音符が飛び交っている。予想はついていたものの、示された努力の形跡に妓夫太郎は感心した様に目を凝らした。
「作曲って初めて挑戦してみたけど、すっごく難しい・・・なかなか進まないよ」
「そりゃあ、簡単にはいかねぇだろうなぁ」
演奏と創造はまるで別物だ。ふたりの所属するピアノ科には作曲を志す学生も一部在籍しているが、演奏に力を入れる身のが見よう見まねでマスター出来る筈も無い。
尤も、挑戦すること自体は悪く無い筈である、と。自然な流れでフォローしようと決めた妓夫太郎の言葉は、思いもよらぬ展開に掻き消えることになる。
「・・・しかも、間に合わなかったし」
「あぁ?」
「本当は、今日までに形にしてプレゼントにしたかったんだけど・・・」
「・・・お前、まさか」
断片的な単語と状況が現実を物語る。が不慣れなことへ果敢に挑戦した理由。それは妓夫太郎にとって思いがけない衝撃を伴った。
「あ。プレゼントは別でちゃんと用意してるよ?それは後で梅ちゃんと一緒の時に渡すから大丈夫、安心してね」
何を勘違いしたのかが顔の前で両手を振る。間に合わなかったことへの気まずさが滲む苦笑。そして、妓夫太郎の目の前でノートを閉じ、大切に胸へと抱き寄せるその黒い瞳が、柔らかく細められる。
「これはね、どうしたら謝花くんに喜んで貰えるかな、笑ってる顔をもっと見たいし、考えてるとニマニマしちゃうな、なんて考えてたらふと音楽が降りて来るようになって・・・きちんとしたスコアに落とし込む前に、下書きのつもりで始めたノート」
の瞳の雄弁さは、痛いほど良く知っている。どう見ても偽りの欠片すら、疑いの余地も無く。ただただ、正直で温かな好意が、そこにあった。
「・・・」
慣れない。特別な関係に前進して尚、慣れることなど出来ない。否、きっとこの先も慣れることなど無いのだろう。こんなにも大事な存在から、想定以上の思いを返されることの喜び。それを素知らぬ顔で消化出来る術など、持ち合わせている筈も無い。
そうして口籠ることしか出来ずにいる妓夫太郎の視線を受け止め、照れたのか焦ったのか、はノートを両手に掲げたまま早口に捲し立てた。
「だ、だから、私のだらしない雰囲気も多々反映されてるし、曲って呼べるほど大層なものでもないんだけどね・・・!えっと、まずは来年の完成を目標に、他に書いた計画も含めて、追々消化していきたいと思ってて・・・」
「・・・計画?」
「そう。プレゼント候補が私の作曲だけじゃ心許ないし」
調子を取り戻し穏やかに笑う彼女の手によって、パラパラとノートの頁が捲られていく。右往左往の作曲の痕跡が残る見開きが目立ったが、五線譜の必要無い箇条書きも散見された。
《紅葉の時期を見てハイキング》《温泉街の散策》《サイクリング》《お月見》《パワースポット巡り》。《食べ歩き》には吹き出し付きで“ふたりの好きな味を要調査”と書き足してある。閃いた順に書きだしたのであろう。彼女の高揚感が伝わるような文字が、踊るように並んでいた。《海外でバースデーリサイタル!》には、流石に汗のマークが添えられていたが、二重線で消されることなく隅に鎮座している。
「謝花くんのお誕生日のお祝いに、梅ちゃんも一緒に楽しめるようなこと、考え始めたら止まらなくなっちゃって・・・あ、勿論今見せたからには、来年以降謝花くんの意見を優先して選んでいくつもり!」
が思い描いた計画の数々は、どれも優しい未来を想起させた。妓夫太郎は思わず小さく苦笑を浮かべる。の願いに自然と妹の存在が根付いていることが、胸の内を温かくした。何だかんだと強がりながらも梅はに心を許している。きっと喜ぶことだろう。
しかしながら、今から来年の話とは流石に気が早いというものだ。
「・・・鬼が笑うって奴なんだよなぁ」
「あ。冗談だと思ってる?私は本気だよ。確かに難易度高めなのもあるけど、私は謝花くんの為なら準備に何年かかったって・・・」
何年、かかっても。至って和やかなトーンで発された、その言葉の真意を意識したのはふたり同時のことで。窓とドアの閉ざされた練習室は、瞬間静寂に満たされた。
何年か後の未来。それはごく普通のカップルならいざ知らず、前世の記憶を持つ妓夫太郎にとって、の側から発されるにはあまりに覚悟足らずの話題だった。
無論、軽率な思いで踏み切った訳ではないと心から誓える。しかし、事情を知らないにこの重さを強要することは出来ないと。結果として例え実を結ばずとも、どんな形であれ見守れたならそれで良いのだと。いつかこの優しい夢から醒める日が来ようとも、の幸せの為なら喜んで身を引けると。
自信の無さ故に、幸福過ぎる日々の中で、無意識に予防線を張っていた。
「あっ・・・あの、謝花くんさえ迷惑じゃなければ、の話だけど」
しかし、妓夫太郎は失念していた。例え記憶が無かろうとも、彼女はであると。
「何年先でも、謝花くんのお誕生日をお祝いする権利が、欲しいなぁ・・・なんて」
冗談とも、思い詰めた声とも違う。ただ、ひたすらに幸福や喜びの色だけを乗せた声。迷う事なく真っ直ぐに差し出された、未来の約束。ずっと、隣にいたい。心の底から、望んでいた。口には出せない、妓夫太郎の願い、そのもの。
「って、これじゃ私がプレゼント要求してるみたいだよね!ごめんなさい、今日の主役は謝花くんなのに、私ったらまったく欲の塊で嫌になっちゃうよね、もう」
「・・・好きにしろよなぁ」
「え?」
叫び出したい程に嬉しくとも、この様な言い方しか出来はしない。
「・・・んなもん欲しがるのは、お前くらいだからなぁ」
それでも、大きく見開かれた黒い瞳は己を映したまま、喜びに輝くものだから。
「あ・・・ありがとう!!すごく、すごく嬉しい・・・!!」
こんな日を、どれほど夢見たことか。共に在れる未来を憶することなく望める状況を、どんなに欲したことか。
目の前で咲き綻ぶ笑顔があまりに眩しく、あまりに愛おしく。意識とは別の何かに突き動かされ、隣り合う彼女を覗き込む形で顔が近付いた。
寸前で我に返ったことは、幸か不幸か。ぐっと目を閉じ待ち受けるの表情は、どう見ても期待と緊張でいっぱいのそれで。心臓がどくんと脈打ち、羞恥と戸惑いと葛藤に手が震え、そして。
「・・・」
妓夫太郎は下唇を噛んだまま、の額へ押し付けた。
びくりと震えた末、顔が離れると同時に睫毛を揺らし、二度瞬いた黒い瞳に囚われる。明確に近過ぎる距離感で尚、上気した頬と照れた笑顔を惜しみなく向けられ、妓夫太郎は遂に羞恥で白旗を上げた。
何でも良い。今この時息が出来ない程の動揺を紛らわせるなら、何だって構わない。強引に顔を背け、徐に荷物へ手を突っ込み、妓夫太郎がに差し出したもの、それは。
「・・・え?謝花くん、これ」
透明なファイルに挟まった、黄色い銀杏の葉だった。
「・・・さっき、俺の荷物に付いてきた」
「押し花のこと、覚えててくれたの?」
「・・・一応なぁ」
はノートの上に重ねるようファイルを受け取り、じっと鮮やかな黄色に見入っている。妓夫太郎は懸命に心音を鎮めながら、可能な限り重荷にならない逃げ道を模索した。
「必要無ぇなら、捨てるなり何なり・・・」
「・・・謝花くんはずるい」
はノートとファイルを共に胸へと抱き寄せ、瞬間顔を伏せる。ただでさえ平常心ではないところ、必要以上におろおろとしそうになる妓夫太郎の目の前で、は顔を上げた。
「謝花くんのお誕生日に、謝花くんのバッグに降りて来た綺麗な秋の結晶なんて・・・このノートの栞として完璧過ぎるよ。これから先のお誕生日も予約できたし、特別な栞まで・・・はぁ。幸せ過ぎて溶けちゃいそう」
一言一言を大切に噛み締めるようにして、は笑っていた。これから先の展望を描き、思いを音にしたノートの栞として、今日という日に舞い降りてきた銀杏を使うと言う。何より、が心から嬉しそうに笑っている。それだけで、全ては取るに足らないことであると。この笑顔の為なら何でも出来ると。窓から挿し込む光に煌く、最も大切な光景を、妓夫太郎は己の目に焼き付けた。
「ありがとう、丁寧に処理してしっかり押し花にするね。ふふ、謝花くんのお誕生日なのに、何だか私ばっかり良い思いして申し訳ないなぁ」
そっと自身の額に触れながら、が幸せそうに囁く。
一番欲しかったものを差し出され、今尚喜びの渦に足を取られているのは、一体どちらだと思っているのか。
「・・・こっちの台詞なんだよなぁ」
妓夫太郎の声は極限まで掠れ、の耳には正しく届かない。愛らしい顔で疑問符を浮かべる彼女に対し、妓夫太郎は首を振って練習用の楽譜を取り出すのだった。