光は地に墜つ





眠らぬ夜の街は、今宵も賑わいの峠を越えた様だった。

夜も深まった大通りは人気が徐々に疎らになりつつあり、カランコロンと覚束ない下駄の音がよく響く。夜明けには程遠かったが、それでも尚肌に纏わりつく空気はじわりと熱気を孕んでいた。

京極屋の奥まった一室、気怠く格子窓の外を眺める妓夫太郎の耳が、素早く反応を示す。酒に酔った二人組の卑俗な笑い声が空気を揺らし、ただでさえ鬱々とした熱帯夜の不快度合を上げたようだった。

「さあさあ次はどこの店だぁ?」
「飲み過ぎだって、その辺にしときなよぉ」
「おいおい、今日は何の日か忘れちゃいねぇだろうなぁ?」

酒に女に、好き放題溺れたのであろう。呂律の回らぬだらしの無い口調は、しかし突き抜けるような陽気さに満ちていた。

「今日は俺の生まれた日!殿様は俺だぁ!!」
「あっはっは!馬鹿な殿様だよ!」

独りでは前進も危うい千鳥足、貫禄など欠片も感じぬ風貌。それでも己は殿様であると繰り返す男の醜態に妓夫太郎は瞬間唖然とし、そして間もなく、心底呆れ返ったかのように半目で眉間に皺を寄せた。

「・・・下らねぇ」
「そう捨てたものでも無いのよ」

本心からの侮蔑に対する返答は、即座に齎された。ほんの数秒前までは不在だったこの部屋の主が、妓夫太郎の正面に座する。ゆっくりと遠ざかる男たちを静かに見下ろす女鬼の顔は、普段通り人間と寸分たがわぬ美貌で縁取られていた。ゆっくり目と目が合い、はにこりと微笑む。

「生まれた日を口実に、羽振りの良くなる殿方が多いみたいだから」

妓夫太郎が下らないと称したものを、は捨てたものでもないと云う。それは与えられた使命に利するものであると、彼女の穏やかな声が告げていた。

「しっかり支払って下さるお客様なら邪険に扱えないわ。お店が安泰なら私たちも安泰、そうでしょう」
「・・・」

ひとつ。青い彼岸花、その在り処を探る。
ふたつ。闇夜に乗じて鬼狩りを葬る。

どちらも始祖より言い渡された長期的な命令であったが、遂行し続けるにはこの町に溶け込むことが絶対条件であった。破壊と殺しを最小限に留めることに堕姫は不本意な様であったが、そこをが上手に宥め今がある。
“京極屋の蕨姫”は彼らにとって何代目かの配役だが、これまでどの店でも彼女が間に入ることで人間たちと絶妙な調和を保ってきた。与えられた任を全うする為には、一定の期間毎に名を変えながら店に在籍を続けなくてはならない。花魁として君臨し続けるには、店が安泰でなければならない。店が安泰であり続けるならば、羽振りの良い客は丁重にもてなさなくてはならない。例えそれが、愚かしい程脆弱な人間であっても。
乱暴な音を立てて、襖が押し開かれる。不機嫌を隠そうともしない絶世の美女が立っていた。

「別にあんな塵虫の売り上げが無くたって、このアタシがいるんだから店は潰れっこないわよ」
「あら、お疲れ様・・・確かにそれはそうね」
「もう。あいつら弱くて醜いなりで、おめでたい口実を考えるのだけは一人前なんだから」

簪の一本を乱雑に引き抜きざま、更に荒々しく畳へと投げつける。米神を引き攣らせながら、堕姫が苛立ちのままに崩れ落ちた先は器用にもの膝だ。目を丸くしながらもそれを当然の流れで享受する穏やかな微笑みと、まるで幼子の様に頬を膨らませ不満を体現する妹の姿に、妓夫太郎は苦笑を零す。不快な蒸し暑さに風穴をあけるが如く、涼やかな風が僅かそよいだ。

最高位の花魁まで上り詰めるには、妹の美貌をもってすればそう時間はかからなかった。道すがらもこれからも、この守るべき存在が女として欲の捌け口にされることは万に一つも在り得ないが、一定の金を積んだ客に限り酒宴の相手は避けては通れない。望まぬ酌に疲れたと連呼する堕姫を甘やかす、それは妓夫太郎とにごく自然と染み付いた務めとも呼べた。

「おめでとうおめでとうって、どうでも良い奴に愛想振り撒いて疲れちゃったわ。屑の生まれた日なんて欠片もめでたくないわよ、最悪」
「本心はどうであれ、きちんとお役目を全う出来る貴女は立派だわ」
「本当になぁ。頑張ったなぁ、偉いなぁお前は・・・」

の膝を枕に好き放題ごろりと寝転がる綺麗な額に、極力優しい掌や誉め言葉を代わる代わる齎す。そうしている間に、妹の機嫌がじんわりと良好な状態へと保たれていく。この光景を眺めることは妓夫太郎にとって日常であったが、今宵に限っては何かが引っ掛かった。

もう随分と遠ざかった人間の、陽気な声。我こそ殿であると酔っ払う醜態が、瘡蓋の様に耳の中へこびりつき離れない。

「人間ってのは楽で良いよなぁ・・・生まれた日ってだけで、持て囃されるんだからなぁ」

偉業を為した訳でもなく。高貴な生まれという選びようのない恵でもなく。ただただ、生まれた日であるという、それだけで担ぎ上げられ、喝采の中央に躍り出る。人間とは低俗で、心底下らない。そうした侮蔑の一心で口にした言葉であったが、奇妙な静寂の間が生まれた。

妓夫太郎はまず、の膝に寝転ぶ妹を見る。数字を刻まれた大きな瞳は何度も瞬かれて兄を注視していた。次に、膝を明け渡すを見遣る。彼女は瞬間探るような表情を浮かべた末に、やはり普段通り柔らかな笑みを妓夫太郎に向けた。

「それなら、今日ということにしたら?」

今日、とは。一体何のことかと話の先が見えず怪訝な顔をする妓夫太郎を前に、の笑みが一層優し気なものへと深みを増す。

「今日が貴方の生まれた日。どうかしら」
「あぁ?・・・そんな覚えは欠片もねぇが」

何を言い出すかと思えば。人間であった頃の記憶はとうの昔に忘れ去った身で、生まれた日のことなど覚えている筈も無ければ、それが今日である可能性など皆無に等しい。そうして話を終わらせようとする妓夫太郎を半ば遮るように、小首を傾げて微笑むの声は普段より若干強引だった。

「本当の生まれた日なんて、私たち誰も覚えていないわ。でもわからないことを理由に、一年に一度の特別さを味わう機会も得られないだなんて、何だか損だと思わない?」
「へえ・・・確かにそうかも!人間如きがアタシたちにわからないことで浮かれてるなんて、癪だし!好きに決めちゃえば良いんだわ!今日がお兄ちゃんの生まれた日!」

意外にも堕姫がの提案に乗ってしまう。これには参ったと、妓夫太郎は頭を掻かずにはいられない。生まれた日を覚えていないならば、勝手に決めてしまえば良い。そこまでは理解が及ぶものの、理由も無く主役になる権利はどう考えても己には不釣り合いなものに思えて仕方がなかった。

「・・・それなら俺じゃなく、お前らの日にしろよなぁ」

絞り出した掠れ声は切実なものだったが、それを受け止めた妹の目線はきりりと厳しい光を放つ。

「嫌よ!アタシたちは別の日にするの!今日はお兄ちゃんの日!アタシもう決めたから!」
「ふふ・・・だそうよ」

異論を挟む余地はない。の膝の上で得意気に反り返る堕姫を前に、妓夫太郎は諦めるしか術を持たなかった。蒸し暑い夏の今宵、覚えはないが生まれた日とする。深い溜息を吐き出すと、勢いよく飛び起きた妹は素早く腕に絡み付いてきた。一挙一動、妹の愛らしさに妓夫太郎の頬は自然と緩む。

「お兄ちゃん、おめでとう!今夜はお兄ちゃんが一番偉いの、なーんでも言う事聞いてあげる」
「何でもかぁ・・・」
「そうよ!何でも!楽しいこと沢山するの!ほらお兄ちゃん、何かしたいこと考えてよぉ!はやく!」
「・・・」

突如持て囃されることは大きな戸惑いでしか無かったが、にこにこと上機嫌に笑う妹の前では無力に等しい。そうして苦笑を浮かべる妓夫太郎を見遣り、が優しく微笑んだ。



* * *



びゅうと音を立て、一段と大きな風が吹いた。
警戒と共に擬態を解いた堕姫が心地良さそうに目を細め、好き放題に靡く白髪を、が気持ち程度にそっと撫でつける。吹き付ける風圧は、流石の高度で不快な湿度とも縁遠いようだ。
京極屋の屋根より遥か高く、夜空の一角に溶け込むようにして。洋紅色の帯を足場に、三人の鬼が身を寄せ合い町を見下ろしていた。

「なかなか良い眺めじゃない!赤い星が沢山落ちてるみたい!」
「おい・・・あんまり乗り出すと落ちるぞぉ」
「落ちる訳ないじゃない、アタシの帯なんだから!」

長いこと潜伏を繰り返し知り尽くした筈の、夜間でも真昼の如き色町。それは見上げると見下ろすでは随分と様変わりし、闇の中に無数の光が煌めいて美しい。街灯を落ちた星に例え、きょろきょろと辺りを見渡す堕姫はどう見ても上機嫌の極みだ。瞳を輝かせ喜びを表現する様に、妓夫太郎とが目を交わし合い、肩を竦めそっと笑う。

「そうね。貴女と、貴女の優秀な帯に感謝しなきゃ」
「ふふっ、わかってるじゃない。けど、誰かさんの血鬼術にも感謝してあげても良いわよ」
「まぁ。それは光栄ね」

夜半を越えたとはいえ、この町では人間の出入りが絶えることは無い。遥か上空に浮かぶような形で見下ろす三体の異形が、人間の目に突如触れればどうなるか。精神操作に長けた血鬼術を持つ無しには、この計画は実行に移せず終いだっただろう。
時に酔い潰れた客がひっくり返ろうが、時に外の空気を吸いに出て来た店の者が疲れに天を仰ごうが、彼らの視界に三人の鬼は入らない。そちらを見ない、声が聞こえたとて気に留めない。彼女の”毒“の使い道としては本来の用途と異なるが、ただの人間相手にそうした暗示をかける程度であれば、にとって容易いことだった。虜にするも、無関心にするも、思いのままだ。

何にせよ、遊郭の夜景を上から眺めるという形で独占する今は特別な時間と呼べた。尤も、これが“今宵の主役たっての希望”であれば、今日という日の筋書きとしては申し分無かったのだろう。満足感で溢れる中にたったひとつの不満を思い出したかの様に、堕姫が小さく頬を膨らませた。

「お兄ちゃんの日って決めたのに。結局教えてくれないんだもん。折角何でも言うこと聞いてあげるって言ってるのに、これじゃアタシのしたい事しか叶ってないじゃない」

生まれた日の祝いとして、何でも願いを叶えるという問いに対し、妓夫太郎は明確な答えを示さなかった。豪華な宴の席も、特別の稀血も、何ひとつ特別を求めない。堕姫が痺れを切らすまでそう時間はかからなかったが、咄嗟に間を取り持ったが口にしたのだ。ならば、貴女が一番相応しいと思う方法で祝福すれば良い、と。
結論として帯を使い、特等席から夜の街を見下ろすという現状に至る。絶景に喜ぶやら不満に頬を丸くするやら忙しい妹を見遣り、瞬間の真顔を置いて妓夫太郎の表情が和らいだ。

「そう言われてもなぁ・・・お前が喜ぶことが、俺の一番の望みだからなぁ」
「もう、お兄ちゃんったら。そういうところ大好きよ!」

満更でもない顔で戯れに頬へ口付け、再び眼下の煌めきに夢中になる。そんな妹の姿に、妓夫太郎の胸中は満たされた。
特別なことなど何もいらなかった。ただ、守るべきものがこの腕の届く範囲に在れば、それだけで良い。今宵の主役に据えられた以上、それは許されなかった様ではあるが、結果的に妹が嬉しそうに笑っているのだから全てが丸く収まった。真夏の熱帯夜も上空ではひんやりとした風が心地よく、即席の生まれた日もそれほど悪くはない。そうして眦を下げる中、不意に隣から視線を感じ顔を向ける。安堵と美貌が織り交ざった微笑みは、真正面から受け止めるには落ち着かず、妓夫太郎はから視線を逸らした。

「・・・何だぁ?」
「いいえ、ただ・・・とても、素敵な時間だと思って」

の声は優しい。気を遣わせてしまったことに、気付けぬ妓夫太郎ではなかった。
生まれた日というだけで殿様扱いになる権利を持つ人間を、露骨に妬むような言い方が良くなかったのだろう。大事なことは何か、何を以って幸福と呼ぶのかは、日頃からよく理解出来ている筈だろうに。
ただ、何も為さずとも愉快に笑い担ぎ上げられ、ただただ陽気に生きるその様に。胸の奥が焦げつくような、説明のつかない痛みを覚えた。

「私も、貴方たちの喜んでいる姿が、何よりの幸せだから」

仮初の生まれた日を設けてくれた彼女が、そっと口にした言葉は、あまりに慈愛に満ちたものだった。

「貴方の日、おめでとう。晴れの日の傍にいることを許してくれて、ありがとう」
「・・・」

何を言っているのか。許すも何も、の能力無しにはこの状況は成立しない。否、それ以前に、妓夫太郎が守る対象として認識しているのは、当然妹だけではないと云うのに。
心の奥底がむず痒くなるような戸惑いは、しかし次の瞬間に斬り捨てる。

妓夫太郎が片腕を振るったその刹那、赤い斬撃が鋭く地上へと飛んだ。
次いで物陰に肉片が崩れる音を、鬼達の耳は正確に拾い上げる。屍は即座に分離した帯が飲み込み、それ以上の奇襲の気配は無い。今宵の鬼狩りは、脅威にも満たない一匹のみ。
しかしながら、邪魔が入るにはあまりに惜しい夜だった。

「・・・最低。今、とっても気分が良かったのに。下等な連中は空気も読めないのね」
「本当になぁ。どこからでも湧いてきやがるんだよなぁ」

兄妹はそれぞれ米神に青筋を立て、忌々しい鬼狩りを呪った。しかし、は違う。

「・・・ごめんなさい。私の力が、及ばないせいで」

明確に声が沈み、彼女の哀しみを物語った。
の血鬼術はただの人間相手には有用なものであったが、彼女自身は鬼としてそれほど強くはない。手練れの者であれば、破られてしまうことは儘あった。
今宵が特別な夜であることを誰もが感じていた。堕姫が瞳を輝かせ、妓夫太郎がそんな妹のはしゃぎ様に喜びを感じ、そしては二人の姿を幸福そのものと称したばかりなのだ。邪魔を許してはいけなかった。そうして見る見る内に意気消沈し項垂れていくの肩を、妓夫太郎が掴む。

「・・・止せよなぁ」
「でも・・・」

鬱屈に顔を曇らせること、己の至らなさに胸を痛めること。どちらもには似合わないと本能は告げているが、同時に、彼女がこの状況で自責の念を負う性分であると理解も出来てしまう。表向きは気怠い空気感のまま懸命に頭を巡らせ、妓夫太郎が導き出した解は、他ならぬ彼女が定めた今日という日に起因したものだった。

「・・・今日は俺の日。そういう話だった筈だよなぁ」
「それは・・・」
「そうよ。そのお兄ちゃんが良いって言ってるんだから良いの!余計な虫はすぐ叩き潰せば良いんだから」

思惑通り言い淀んだ隙を逃さず、堕姫が援護の手を出した。好き放題に甘える傍ら、の悲しむ顔を望まないのは兄妹に共通する思いだった様で、その美しい指先で俯きがちの顔を強引に上げさせる。

「アタシたちは何があっても三人一緒。当たり前のこと言わせないで」

決して柔らかな物言いではなかった。しかし、目と目を合わせて傍にいるのが当然だと言い切られたことで、の瞳に光が戻る。その瞬間を、妓夫太郎は安堵と共に見守った。

「それよりもっと高いところ行きたい!あっちの屋形船も見てみたいわ!」
「そうだなぁ。お前の言う通りにしようなぁ」

堕姫の意思で、三人を乗せたまま帯が移動を始める。足場として崩れはしなかったが、強めの風が吹いたことで少々怯んだの肩を、妓夫太郎が支えた。至近距離で交差した目線からは憂いの色が明確に薄まっており、妓夫太郎は妹の言霊の強さに改めて感謝する。

「・・・敵わないわね」
「今更かよ」

線引きをする必要はないと、はっきり言葉にすることは妓夫太郎にとって難しい。それでもこうして小さく笑い合うことで穏やかさを保てるのは、妹と彼女しか在り得ない。

「時間は限られてるからなぁ・・・気落ちしてる暇は無ぇんだよなぁ」
「ええ、そうね。ありがとう」

夜明けはまだ遠い。地面がまた一段と遠くなる。人間は一層小さく、赤い光は更に美しく輝きを増し、堕姫が歓声を上げた。